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第四回「中学校の
スクール・ソーシャルワーカー編」
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第四回「中学校のスクール・ソーシャルワーカー編」

10代の決して短くない時間を過ごす、学校という場所。誰もがそれぞれに想い出を刻み込み大人になっていく、その過程の特別な時代を送る空間。どこか懐かしいチャイムの音が、放課後の校舎に響いています。
学校で経験することは、決してうれしいこと、楽しいことだけではないはず。勉強のこと、友達のこと、進路のこと。可能性に満ち溢れたその心の中で、いろいろな感情が渦巻く、そんな時代。時には、その感情の赴く先を誰かに委ねたくなる時も、きっとあるでしょう。

東京・板橋区にある、東京家政大学附属女子中学校・高等学校。この学校に、そんな生徒たちの日常をサポートする “スクール・ソーシャルワーカー”として勤務する、ひとりの先生がいます。鮫島奈津子さん。全国的にもまだ珍しい常勤のスクール・ソーシャルワーカーとして働いています。子供たちを取り巻くさまざまな悩みや問題を子供の視点に立って福祉的に解決してゆくこの仕事。日本では1980年代半ば以降、その必要性が訴えられてきたといいますが、いまだ広く浸透していません。
「暗い顔をして学校に来た生徒たちの表情が、鮫島先生の顔を見た瞬間に変わるんです。」
学校のある先生は、鮫島先生の存在の大きさについて、そんなふうに語って下さいました。行き先に惑う生徒たちにそっと寄り添うように、日々、生徒たちと向き合っていらっしゃいます。

保健室の隣にあるカウンセリング室。午後の明るい日差しが差し込むその部屋に、馬場さんは鮫島先生を訪ねました。


馬場:子供の頃、小学校の保健の先生にはプレッシャーなくいろいろ話せた記憶があります。当時おそらく50歳ぐらいの方でしたが、小さな町だったので家も近所で、担任の先生とも親とも違う安心感があったことを思い出しました。鮫島先生は、なぜソーシャルワーカーになろうと思ったんですか?

鮫島:もともとは高校で教員をしていたんですが、生徒の中には、家庭環境とか経済的な困難とか、自分の力ではどうしようもない問題を抱えている子もいました。学校はあくまで勉強をするところだけれど、そういう生徒たちと接しているうちに、彼らに対する勉強以前のケアが必要なのではないかと思うようになりました。そんな時にスクール・ソーシャルワークという言葉を知ったんです。アメリカが発祥の考え方ですが、日本の学校にもそういう人がいたらいいなって。ただ、自分がソーシャルワーカーになろうというよりは、ひとりの教員としてそういう人と一緒に仕事をしたいなって、最初は思っていたんです。

馬場:学校の先生になりたいという目標は、いつ頃からお持ちだったんでしょうか?

鮫島:高校時代ですね。普通はお世話になった先生に憧れて自分も教員を目指したりするんでしょうけれど、私はそういうのがあまりなくて、今思えば生意気なんですが、「もっと子どもの気持ちを理解してくれる先生がいればいいな」とか「子どもの話を聞ける教員になりたい」なんて思っていましたね。

馬場:小学生や中学生の頃って、先生というのはものすごい大人で、達観したというか、確固たる存在に見えましたよね。でも、今振り返って思うと、新卒で赴任したら20代前半ですから、その年代じゃいろいろ悩んで当然だろうって、今になればわかるんですが。

鮫島:私も、実際教員になってみると、思ったように生徒の話を聞けなくて。自分のクラスや自分が関わっている生徒たちとは話ができても、学校全体というわけにはいかないんです。でもソーシャルワーカーなら、気になる子がいたらどんどん声をかけることができる。いい仕事だと思いましたし、子どもたちが成長していくことをいろいろな先生と共に喜べることは、とても嬉しいことだろうなと思いました。

ソーシャルワークという概念は、アメリカでは100年ほど前から存在していたそうです。しかし、日本でその重要性が認識され始めたのは、まだごく最近のこと。2008年に文部科学省がスクール・ソーシャルワーク活用事業をスタートさせたものの、職業として社会的に認められるまでには、今後さらに多くの時間を要するようです。